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堀川の歴史 その6〜一条戻橋 その2〜

今回は、平安時代の渡辺網にまつわるお話です。
渡辺網は、大江山の酒呑み童子討伐で有名な源頼光の配下で、おとぎ話でも有名な金太郎の同僚でもあった人物です
その渡辺網が、夜更けに一条戻橋を通りかかったところ、そこにいた美しい娘がおびえた声で「夜も更けて恐ろしくなり、先へ進めないので家まで送ってほしい」と、懇願しました。
勇敢な武者である渡辺網は娘の願いを快く引き受けて、馬に乗せたところ娘はたちまち恐ろしい鬼に姿を変え、渡辺網の髪を掴んで愛宕山の方角へ飛び去ろうとしましたが、渡辺網は手にした名刀「髭切りの太刀」で鬼の腕を切り落とし、難を逃れたということです。
切り落とした鬼の腕は、陰陽師として名高い安倍晴明に託されたとも言われています。

戻橋 夜渡辺網


堀川の歴史 その5 〜一条戻橋 その1〜

一条通りの堀川に架かる一条戻橋には諸説があり、今回は平安時代中期の漢学者・三善清行にまつわるお話です。
延喜18年(918年)に、三善清行が享年72歳で他界しました。その葬儀の列が一条戻橋(当時は土御門橋)を通ったとき、熊野紀州から駆け付けた比叡山の行者であった子の浄蔵が棺にすがり神仏を祈り、父を蘇らせてくれるよう懇願したところ、三善清行が一時蘇生したということです。このお話が“一条戻橋”と呼ばれる由来のようです。

一条戻橋その?

堀川の歴史 その4 〜市電〜

京都は電気鉄道事業発祥の地です
京都電気鉄道株式会社は明治27年に創立し、明治33年には北野線が開通しました。北野線は、京都駅〜北野までを繋ぐ路線で、四条通〜中立売通間を堀川(遊歩道を挟んで東側)に沿って走り、堀川第一橋(中立売橋)を斜めに渡って、中立売通を西へ進んでいました(写真)。京都の人々にチンチン電車と呼ばれ親しまれていましたが、昭和36年に惜しまれつつ廃線となりました。今では想像がつかないですが、50年前までは市電が堀川沿いを走っている姿が見られました。

市電

堀川の歴史 その3 〜堀川第二橋〜

堀川第二橋は、堀川第一橋が出来た翌年の明治7年に架けられました。下立売通りの堀川に架かる橋で、下立売橋とも言われています。橋の拡張工事が行われたため、橋の上からは一見アスファルトの橋にしか見えないのですが、橋の下から見るとアーチ型の石造りの橋が見られます。
ちなみに・・・堀川第一橋は「鶴の橋」、堀川第二橋は「亀の橋」と通称名があります。

堀川第二橋堀川第二橋






堀川の歴史 その2 〜堀川第一橋〜

堀川第一橋は中立売通の堀川に架かる橋で“中立売橋”とも言われ、京都御所と二条城を結ぶ公儀橋として明治6年に掛けられました。アーチ型の石橋は、隙間なく壁石が敷き詰められていて真円の形が見事な橋です。この橋の南側にはかつて斜めに架かる橋があり、市電が堀川を渡っていました。レンガ造りの壁の部分にその橋の名残がみられます。

堀川第一橋斜めに架かる橋の名残

堀川の歴史 その1 〜石垣に刻まれた史跡〜

「京の七夕」会場の一つである、堀川・・・
今では遊歩道ができ、市民の憩いの場として親しまれている場所ですが、昔は木材・物資の運搬や、農業用水に使用したり、友禅染の友禅流しなど、京都の人々の暮らしを支えてきました。その一方で、台風や豪雨時には洪水被害が度重なって、治水工事が行われてきました。そのため数年前までは、幅30センチの水路に雨水が溜まるだけの川とは程遠い状態となっていました。
そこで「堀川水辺環境整備事業」により平成21年3月に今の遊歩道が完成し、堀川に清流が復活したのです!!きれいに整備された堀川には、散歩をしたり、夏には子供が水遊びをしたり、ベンチで憩う人たちが見られます♪
そんな堀川には、歴史を感じられる場所がいくつかあるので、少しずつご紹介していきたいと思います

■石垣に刻まれた史跡
堀川に架かる二条橋の北側にある石垣には、「是より北紀州」と刻まれています!これは、1600〜1619年まで紀伊国を治めた紀州浅野家が二条城築城の際に北の石垣建築を担当したことを示しているようです。そのほかにも・・・二条橋から夷川橋にかけて21箇所の刻印が発見されています。石材の輸送の時などに紛失や分散を防ぐための目印として刻まれたようです。
様々な印があって、見えにくい箇所に刻印されているものもあり、全て見つけるのは難しいようですが、一度探してみてはいかがですか

史跡?刻印


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